創業物語
人生に無駄なことなんてない
今、感謝とともに、素直にそう思います
株式会社中村ワークス 代表取締役 中村元泰
◆アメリカへ行くための資金稼ぎで天職と出逢う
「アメリカに行きます!」-そう言って大卒で入社した会社をたった1年で辞めたのは、今からもう20年以上前。
実際は、赴任地での一人暮らしの寂しさや、社会の厳しさに耐えられなかった、まだまだ学生気取りの自分だったのが原因でした。
中学、高校の頃から英語が得意で、大学ではスペイン語を専攻。アメリカ留学も経験し、「世界中を飛び回るような仕事がしたい」と思っていた私は、ツアーコンダクターや旅行会社での仕事に憧れていました。
「いずれは海外を拠点に仕事をし、海外に住みたい」-広大なアメリカの大地に想いを馳せながら、そんな夢も持っていました。
しかし当時は「大学を卒業したなら、“立派な”大企業に就職」という時代。
私もそのレールに乗った結果、岐阜県では誰でも知っている会社に就職が出来ました。
しかし、入社しいざ、仕事をしていると「つまらない」「難しい」・・・。
さほどやりたくもない仕事に情熱を傾けられるほど、大人ではありませんでした。
“アメリカ宣言”をして1社目で会社を辞めた私に待っていたのは、「辛抱が足りない若造」というレッテルでした。
転職活動をしても、どこの会社からも相手にされません。今思えばその通りです。
就職して3年も辛抱できない若造に世間の大人たちの目はとても厳しかったです。
親、親戚も例外ではありませんでした。
「やはり、アメリカに行くしかないか・・・」
迷いながらも、留学を再度、決意した私は、仕事は資金を貯めるための手段という位置づけに、本当に某運送会社に就職して留学資金をためようとしていました。
偶然、目を引いた就職情報誌をぺらぺらめくっていると、給料の良さに惹かれてたまたま選んだ次の職場が、リフォーム会社でした。
その時は、それが私がこれから一生をかけて付き合う「天職」になるとは、思ってもいませんでした。
当時、常に頭にあったのは、「売上」や「ノルマ」。ライバルである同僚との数字の競争。
そうしたものに神経をすり減らし、今から思えばまるでお客様の気持ちなど考えていない営業でした。
毎日、日付が変わるまで働き、仕事をするごとに営業トークだけがうまくなっていきました。最年少で主任に抜擢されましたが、激務に疲れ、ヘトヘトの日々。
給料は良かったものの、使うのも派手で、結局アメリカへの留学資金は貯まらずじまいでした。
◆独立するも、信じては裏切られ…
27歳の時。同僚に勧められ、独立を決意します。
「リフォーム営業のノウハウは手に入れたし、自分の力を試してみたい」-そんな鼻っ柱の強い若者の無茶な独立は、すぐに行き詰まりました。お客さんに騙されたのです。
約400万円のリフォーム代金をお客さんに払ってもらえず、依頼した業者への支払いが出来ない状況に。
夢は、たった半年で廃業という形に終わり、800万円の借金だけが残りました。
その後はしばらく、サラリーマンに戻ります。自営でやっていく自信もなくなり、安定を求める日々。
また背負った借金を返さねばならず、昼間は会社員、その後アルバイト、隙間時間に少しの自営、とひたすら働き続けました。
深夜のバイトでお世話になっていた「ココ壱」のカレーの味は、今でも忘れられません。
やがで私の心も少し元気になってきます。「自営で失ったものは、自営で取り返す!」、そんな気持ちが沸いてきました。ある建築会社さんからありがたいお誘いを受け、屋根補修の事業をスタートさせます。
ところが、ここでもまた「人を信じやすい」という私の性格があだとなり、ある「事件」が起こります。
仕事を依頼していた職人が、お客様に勝手に「追加料金」を請求していたことが発覚したのです。
当時、私は以前働いていたリフォーム会社と同じやり方で、自分は毎日スーツを着て営業し、施工自体は外注の職人に任せる、という仕事の仕方をしていました。
リフォーム業界ではこれが一般的です。しかし、こんな事件が起こっては、もう頼めません。
この事件があり、私はこの職人ばかりか、他の職人に頼むことさえも怖くなってしまいました。
◆たったひとり、屋根職人としての出発
こんなボロボロな20代でしたが、得たものもあります。リフォーム会社での「営業力」と、「職人を外注して失敗した」という経験。
ここから「営業から施工まで、全部自分でやれる職人になろう」と、私は思い立ちます。
屋根職人さんに頭を下げ、技術をゼロから教えてもらいました。「大学まで出て、屋根職人なんて…」と言われるような時代。
大卒のプライドを捨て、職人になるという選択をできたのは、借金返済のためになりふりかまわず頑張っていた時期だったからからこそだと思います。
こうして「屋根職人 中村元泰」として、たったひとりでの新しい日々が始まりました。
面白い変化が、すぐに起こります。昔気質の職人の世界において、私の営業マン的な対応は、思わぬ評価を得たのです。
「中村君、きちんと挨拶ができて礼儀正しいね」「工事の進捗報告をちゃんとあげてくれるから助かるよ」「感じがいいって、施主さんの受けもよかったよ」…こんな声が、当時の私のお客様だったいろんな工務店さんから聞こえてくるようになり、800万円あった借金も、無事に完済できました。
私にとっては当然のこと、でもそれが職人の世界では当然ではなかったんだ…。
驚きとともに、多くの方が仕事をくださる喜びを感じました。
そして32歳。私は「自分ひとりで年間1億円を売り上げる」と、誓いを立てます。
目標は金額で表しましたが、「売上第一」と思っていた、サラリーマン時代とはもう違います。
職人として仕事がもらえるまでに助けてもらった人への感謝、実際に屋根を直して喜んでくれたご家族の顔、良い仕事をしたいという責任感。
そうしたものが、私の心を満たしていました。屋根の上でもイヤホンを聞きながら経営について猛勉強し、職人だった私は、経営者としての意識を強くしていきました。
◆お客様目線に立った「理想のリフォーム会社」をつくろう
経営者として、多方面からの学びを得るうちに、経営への意欲がどんどん増してきました。
同時に、「一般的なリフォーム会社よりも、私のような1人で完結できる職人の方がお客様にとっては良いはずだ」という自信も持てるようになってきました。
今でも、リフォーム会社は営業専門、実際の施工は職人に外注というのが一般的な形です。
けれどもお客様にとっては、同じ社内で営業から施工までできる会社の方が、安心して任せられるはず。
「よし、自社で職人を育てていける会社になろう。それが自分にとっての理想の会社だ」。
それから私は、各分野の職人を自社スタッフとして採用し、営業面、工事管理、職人としての意識など、ひとつひとつ自分で教育していくようになりました。
1人で始めた「営業もできる屋根職人」のスタイル。当時は苦肉の策でしたが、それが何よりも、この会社に魅力をもたらしてくれる力になるとは面白いものです。
私自身が、知識と経験の両面から社員を指導できたので、1人、また1人と、着実に育ってくれている実感がしっかりともてました。
屋根職人としての再スタートから数年。「今日もまた、理想の会社に一歩近づけたぞ」、そんな充実感とともに終えられる日が、続くようになっていました。
◆「心」と「技術」を育て、職人を誇れるリフォーム会社に
おかげさまで今、私たち中村ワークスは今、「職人の質が良い会社」として評価いただいています。
私自身は数年前に職人として現場に出ることはやめ、これまで以上にスタッフの教育に力を注ぐようになりました。
職人である以上、技術を磨き続ける努力はもちろん必要。そのうえで、「心」の部分に力を注ぎ、育てていきたいと思っています。
私の名刺に大きく記している3つの言葉があります。
それは「感謝」「誠実」「正直」です。その言葉を心に刻み、努力し続けられる集団こそが「中村ワークス」。
力強い仲間を信じて、これからも頑張って行きます。




















